一昨日の夜から、りゅういちが探し物をしていた。イコライザーの信号をショートカットする部品で、コの字型の小さな部品らしい。イコライザーの上に置いた気がする。と言うことだ。りゅういちは、はなから私が捨てた。と思っているから、しつこく私に聞く。
 
確かに私は物を捨てるのは好きな方だと思うが、捨てる時の気持ちは決して晴れやかではない。何かを捨てるということは大なり小なり痛みを伴うものだ。それでも捨てるのは、必要なものを生かすため、限られた空間で快適な生活を手に入れるためだ。
 
私はできるだけ人のおせっかいはやきたくないので、「これは果たしてその人にとって必要なのかどうなのか?これを捨てることによって、その人が得られる快適さと痛みと、どちらが上なのだろうか?」なんてことを、人のために考えてあげるなんてことは、ほぼあり得ない事だ。
 
私の性質を考えなくても、捨てる事に比べたら、とっておく事なんて、恐ろしく簡単なことだと思う。雪崩れてきそうになった棚の上とか、本気で足の踏み場の無い部屋はちょっと強制的に片付けるけれど、親切にいらなそうなものを考えて、捨ててなんてあげないわ。捨てるのはちり紙とか髪の毛とか埃、絶対に必要のなさそうな書類だけ。意味不明なものは捨てない。私物は各自の部屋へポン。ほとんど考えないから、ラクラクだ。
 

 
確かに私はそのイコライザーの近くの配線はいじったけれど、5.1chのアンプとスピーカーの配線だけ。オペラを聴いていたらどうしても大き目のスピーカーに変えたくなったから。基本的にオペラが聴きたいので、片づけが目的ではない。それなのにイコライザーなんか触らないと思う。ワザワザ脳みそを使って捨ててあげるなんてありえない。
 
百歩譲って、そのイコライザーの埃を取るくらいはしたかもしれないけども、そのイコライザーの上にポンッと置かれた部品をワザワザ他の場所に移さないと思う。イコライザーの上にはなぞの部品がイロイロ入った緑の紙の箱が置かれていたのだから、どう考えてもそこに入れておしまいだ。考えられるとすれば、その後、その緑の箱を強制的にりゅういちの部屋へ持って行くことは考えられるが、その箱は今も問題のイコライザーの上にある。
 
だから、私はそんな部品を捨てるわけはないのである。私がその部品に関わっている確立はとても低いと思う。しかし、りゅういちは聞く耳を持たない。「ブログに書くよ。」と言っても、しつこい。文は無力だ。他にこうも言った。
 
「人を疑っている間は、探し物は出てきませんよ。」
 
これは私が探し物をしている時に、よく思うことでもある。ほんとにそうなのだ。私はりゅういちのように、探し物をしつこく人に聞いたりはしないけれど、心密かに誰かのせいにして探していることはよくある。そういう時は、探し物は見つからないことが多い。
 
「自分のせいだ!」
 
と思って、探すでもなく、ちょっとキレイにするか?くらいの感じで片付けていると、探し物は見つかりやすい。心密かに、「人のせいにしないこと」と「軽く片付ける」ということが、探し物を見つける極意だと思っている。
 

  
昨夜のりゅういちは、ようやっと、「人を疑っている間は、探し物は出てきませんよ。」という気分になったらしく、自分の部屋を探して、無事に部品が見つかったそうだ。よかったねー。
 
と、これを書いている間に、キッチンバサミ事件を思い出した。あれの方が面白かったかなぁ〜。あはははぁ〜。
 
( キッチンバサミ事件を読み返して、思ったことは、私、ゴミ捨ててたんだぁ〜。という事。今、捨ててませーん。いつの間にか、分別もりゅういちに移行。ほーんと楽すぎ。世界一楽チンな人のような気がする。そりゃー、運動量が足りなくなるわねー。あははー。ジム、がんばろー。)